書と仏画

なぜ、静慈圓は書・仏画・悉曇しったん作品に
取り組んだのか?

※平成31年3月『静慈圓 喜寿書画展 作品集』(静慈圓)より抜粋

私の書・仏画・悉曇作品と関連して私が求めてきた経過について述べたい。

書について

私は徳島県の田舎の寺で生まれた。檀家寺であったので、中学校、高校のときはいつも父と一緒に檀家の法事、葬式に行っていた。僧として書が重要であることは実感していた。

高野山大学に入学、本式に書を求めることとした。縁あって小坂奇石こさかきせき先生の門をたたいた。小坂先生は、同県出身で大阪に住んでおられた。高野山から毎週先生の宅へ通った。先生の指導は「高貞碑こうていひ」から始まり、あらゆる石碑・法帖の臨書(書写)であった。同時に僧侶として書が重要であることを懇々こんこんと教えられた。小坂先生には、生涯師事した。

書には「書論」、書の理論を書いた書跡があることを知った。高野山大学大学院を終え、大阪大学大学院中国哲学科で研究することとなった。日原利国ひばらとしくに先生は演習授業で「宣和書譜せんなしょふ」(北宋時代、各書体の沿革と、収録書跡の書家評伝をほどこす)を取り上げてくだされた。「宣和書譜」の翻訳に熱中した。このことが直接空海の書論と結びつくこととなった。空海も中国の書論を綿密に読んでいたからである。

仏画について

私は仏教芸術に興味を持っていたので、高野山大学入学後、田村隆照たむらりゅうしょう先生の「密教尊像学そんぞうがく」に飛びついた。4年間先生の講義を興味深く拝聴した。毎夏休みには佐和隆研さわりゅうけん先生が集中講義で見えられた。佐和先生は、密教美術の著書が多く大いに啓発された。2人の先生のお陰で密教尊像を研究する方法を学んだ。

しかし満たされないものがあった。仏画を描くということは、高野山大学ではできなかった。そこで田村先生に相談した。田村先生は、密教尊像は特殊なものであると言って、種智院大学の中村幸子なかむらさちこ先生を紹介してくださった。私は種智院大学の聴講生となり、中村先生に彩色の指導を受けた。私なりに理解するのに4年ほど要した。

梵字悉曇について

密教を理解するには、思想の理解(教相)と修行の体験(事相)の両方が必要である。事相は空海独特の修行の方法「三密行さんみつぎょう」によって構成されている。「手にいんを結び、口に眞言しんごんを唱え、心をほとけの心とあわす」という行である。この内、眞言は悉曇文字で書かれている。また曼荼羅には悉曇文字で書かれた「法曼荼羅」がある。

この梵字悉曇は、古来より悉曇阿闍梨あじゃりから「面授」「伝授」で弟子へと継承していくのである。私は仲間と共に河内長野高貴寺前田弘範まえだこうはん阿闍梨を悉曇伝授阿闍梨に頂き、高貴寺に通い慈雲流の悉曇を継承した。また京都東寺で松本俊彰まつもとしゅんしょう阿闍梨を頂いて開壇されている悉曇講習会に参加し、阿闍梨より指導を受けた。

平成30年秋 静慈圓(於高野山清凉院)

王羲之の墓塔隣に碑文建立
王羲之おうぎし
墓塔ぼとう隣に
碑文ひぶん建立
平成20年(2008)10月、書聖王羲之の墓塔の隣に建立された、空海を顕彰する碑「弘法大師空海越州碑縁起」。林宏作の詩、静慈圓の書が碑に刻まれている。

寄稿空海以来の偉業を見届ける

川田かわだかおる(川田研究所・代表取締役)

※平成29年10月『空海と共に生きる』高野山伝燈大阿闍梨 静慈圓(はる制作室)より転載

静慈圓筆による空海顕彰碑
建立を記念し個展開催

平成20年(2008)10月、静慈圓高野山大学名誉教授が、書聖王羲之の墓塔の隣に空海を顕彰する碑「弘法大師空海越州碑縁起」を建立されました。これを記念し、平成22年(2010)6月11日から1週間、中国の文化人結社である西泠印社せいれいいんしゃの協力を得て、美しい西湖畔せいこはんにある「浙江西湖せっこうせいこ美術館」において「静慈圓書画個展」が盛大な式典と共に開催されました。

これは単なる書画展ではありません。お大師さまのコトバや思想を中心に、中国において弘法大師空海、高野山大学、高野山金剛峯寺をより知っていただくための企画として、西泠印社、浙江省国際美術交流協会、浙江西湖美術館、毎日新聞社後援というかたちで開催されたのです。中国杭州こうしゅうの西泠印社の方々をはじめ、河北かほく省、四川しせん省、福建ふっけん省、北京ぺきん西安せいあん上海しゃんはい香港ほんこん台湾たいわんから静先生の友人が集まりました。私たちも日本から70余名がこの記念すべき式典と個展に参加しました。その様子を報告致します。

個展から伝わってくる
ものと、その背景

この度の先生の書画展は漢字、梵字、仏画の三部作からなる230数点にのぼる膨大なものでした。

西泠印社の劉江りゅうこう副社長は、「静先生の書画の背景にある中国古典や空海研究は、日本人学者のなかでも屈指である」と絶賛されました。

高野山真言宗管長の松長有慶猊下まつながゆうけいげいか(当時)は、個展の図録『静慈圓書画作品集』の冒頭で「静先生は空海の教養、素養を身につけて中国に生かし、なかでも石刻碑せっこくひの多さは日本人として第一等であると同時に、王羲之の墓塔の側に『弘法大師空海越州碑縁起』を建立するという歴史的偉業をなした」と書かれました。

個展に先立ち静先生は『静慈圓書畫作品集』と『日本密教与中国文化』(中国語版の論文集)の2冊を出版し、参加者に配布するという配慮をされました。この2冊を書画展にきたすべての中国人に贈呈し、書画展の背後にある先生の思想を知ってもらいたい、と考えられたのです。1600冊用意したのですが、うれしい誤算になりました。何と入場者は延べ3600人を超えたのです。この本を手にした方々は、静先生の書画の背景には、中国文化に対してこれほど深い教養と思想をお持ちなのだと興奮して周りの人たちに語っていたのが印象的でした。

先生がこの度考慮したのは、書画の背後の思想をどう伝えるかだったようです。中国の文化人には書作品の表現だけではだめです。作品の背後にあるものを伝えなければいけません。それを多くの方々が理解してこそ、初めて中国の人たちに受け入れられると考えておられました。それが『日本密教与中国文化』に結実したのでした。

第1編では空海と中国思想と題して、儒教・道教・仏教との三教思想を展開し、空海と中国文学のなかでは『文選もんぜん』の影響にふれながら、空海入唐時の文章や『性霊集しょうりょうしゅう』のなかに参照されている『文選』の例を述べています。

第2編では空海の行動と思想と題して、空海の上表文じょうひょうぶんの構造とその特色、空海の願文がんもんの構造とその特色、空海と護国思想、空海教学における横竪おうじゅ機根きこん、空海教学における因果いんが論が展開されています。

最後の余録のなかでは『淮南子えなんじ』の影響、『楚辞そじ』の影響、空海の辞賦じふ文学、『詩経しきょう』の影響、『秘蔵宝鑰ひぞうほうやく』に見られる『変文へんぶん』の影響を考察されました。

370ページを超える大論文で、先生の空海研究の広さと深さを示した総集編であるために中国人を魅了してやみません。中国教養人が驚嘆する内容だったのです。そのせいでしょうか、先生のこの度の個展は連日1000人超が訪れる大盛況で後援者はもとより先生ご自身が驚いたといいます。

私たちはともすると眼前の作品そのものだけに注意を払い講評しがちですが、中国人は私たちとは違った、作品の背後にあるものを通して評価するようです。考えさせられます。

今回はさらに、先生の作品からオーラが出ているといって騒いでいました。何人かは、作品の前で動かず、金縛りにあったようになっていました。

中国人が書画に求めるのは
深い教養と思想による土台

中国人の書画に対する評価は、単に「上手うまい」だけではないのです。中国文化に対するどれほど深い教養と思想を身につけているかが重要です。そして中国人の心にいかに溶け込んでいるのかを、書に求め歴史に刻み込むのです。現代の中国人は、これほど厳しいものを書画に求めているのです。

書画が人の心に溶け込むとはどういうことなのでしょうか。その答えは静先生の書のなかにあります。人の心は千変万化せんぺんばんか、片時も同じ心の状態はありません。その心のあり様が素直に書のなかに表現されているのです。書と共に先生の人間としての心情がそのまま共有できるのです。それが感動を伴って心を揺さぶるのです。

書聖の王羲之ですら、有名な「蘭亭序らんていじょ」にこんなエピソードが残っています。多くの友人を招待しての宴席で、一気に書き上げた有名な「蘭亭序」。しかし翌朝になってみると気になるところが多々あり、書き直そうとしてもどうしても満足なものにはならなかった、といわれています。彼をしても同じ心を再現することはできないからです。

静先生は、どんなときでも一端筆を手にした途端にすべてを忘れて作品に集中できるとおっしゃっています。自分が書いているのではなく、書かされているのだと、いつもいわれます。

書のまったくわからない私でしたが、静先生の書を通して初めて、静先生ならではの心情に触れた思いがしました。中国の方々も同じ心を書画に重ねていたのではないでしょうか。

お大師さまのコトバを揮毫きごうした書からは、先生の敬虔けいけんな姿が浮かび上がってきます。また、梵字は今の私たちにはほとんど理解できないために、作品に中国語訳をつけてありました。ここにも見学者に対する先生のやさしさがにじみ出ています。

仏画にいたっては自然に手を合わせずにはおれない見事なでき映えです。線画1本1本が躍動しています。お大師さまの御影3枚はすべて表情が微妙に違います。書と同じように先生の心情がそのままおもてに出ています。

今回の個展は、先生の思想と信仰を余すところなく表現した見事な個展でありました。

会場から一歩外に出てみると、入り口の正面に6メートルの「静慈圓書画展」の大幕が吊るされています。その前に立つと西湖の美しい風景が広がっていました。「自然や人の心のなかに生きる」静先生にふさわしい風景でした。先生のその姿勢が現代中国人の心のなかに深く刻まれたのではないでしょうか。

中国の歴史のなかに自然に
治まる書聖静慈圓先生

私たちは静先生の個展に参加した後、「王羲之の眠る墓塔」とその隣に建立された「弘法大師空海越州碑縁起」にお参りしました。2年前に、この縁起碑建立を記念して2本の梅の木を記念植樹しましたが、すでに幹の太さが5~6センチにまで立派に育っておりました。いつの日にかまた参拝できる日には、たわわに実をつけて碑と共に迎えてくれることでしょう。

最近、王羲之の墓塔の手前に「書画長廊」という石盤の長廊ができました。「王羲之の像」と中国に名を残す有名な書家の作品が石版に刻まれています。この長廊の一番目立つところに、先生も知らないうちにお大師さまの詩「高山風易起、深海水難量」(高山こうざんかぜこりやすく、深海しんかいみずはかがたし)が先生の書で刻まれていました。これには全員が驚きましたが、先生が中国で大いに認識されていることを確認致しました。同時に王羲之とお大師さまとが中国の歴史のなかに何の抵抗もなく、自然に刻み込まれるという快挙を目のあたりにしたのでした。

この地域一帯は、王羲之故居旅游区こきょりょゆうくと呼ばれているところで、王氏宗祠おうしそうし書法圓林しょほうえんりん雪渓書院せっけいしょいんがあり、そのなかに先ほど述べた王羲之の像や墓塔や先生の碑があるのです。王羲之の故居こきょだけに、お大師さまの先ほどの詩の一行が輝いてきます。これは皆さんがよくご存知の『性霊集』第一巻の冒頭に出てくる「山に遊んで仙を慕う」長詩で、お大師さまの自然観や生命観を表すコトバが先生の心に自然に浮かんだのでしょう。

「弘法大師空海越州碑縁起」完成後、現地でセレモニーが行われた。嵊州市市長(写真左)と。
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個展初日のセレモニー。西泠印社、浙江省国際美術交流協会などの関係者と。
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個展初日のセレモニーにて、西泠印社の劉江副社長(写真右)とともに。
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個展が開催された浙江西湖美術館。静慈圓書画展の幕がかかる。
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個展は多くの中国人で賑わい、入場者は延べ3600人以上を記録した。
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静慈圓の仏画作品に見入る入場者。多くがその迫力に圧倒されていた。
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❶「弘法大師空海越州碑縁起」完成後、現地でセレモニーが行われた。嵊州じょうしゅう市市長(写真左)と。 ❷ 個展初日のセレモニー。西泠印社、浙江省国際美術交流協会などの関係者と。 ❸個展初日のセレモニーにて、西泠印社の劉江副社長(写真右)とともに。 ❹個展が開催された浙江西湖美術館。静慈圓書画展の幕がかかる。 ❺個展は多くの中国人で賑わい、入場者は延べ3600人以上を記録した。 ❻静慈圓の仏画作品に見入る入場者。多くがその迫力に圧倒されていた。

静慈圓は三人目の書聖
歴史的偉業の達成で実感

これらのことから、私は静先生を書聖と確認しました。なぜなら、1600年前の書聖·王羲之と1200年前の書聖·弘法大師空海のお二人を縁起碑のなかで結びつけるという離れ技、歴史的な偉業は、書聖にしかできないからです。王羲之故居旅游区のなかで王羲之の墓塔と、その隣に建立された「弘法大師空海越州碑縁起」のなかで、さらに書画長廊において三人の書聖が悠久の歴史のなかで燦然と歩み続けていくことでしょう。

この素晴らしい歴史的業績が、ついに花開くという快挙を、静先生は中国において成し遂げたのです。

  

個人プロデューサーの
許丁芳きょていほうさん

今回の静先生の書画個展は、私たちが空海ロードを参拝するときの通訳をしてくださっていた許丁芳さんの発案と聞きました。許さんは、静先生の20年来の友達で、先生の空海ロードの業績と、書画に触れられたことがきっかけだったそうです。

空海ロードでは南方コース、運河コース、そして古都コースとコース毎に現地の通訳が代わります。どのコースも1日の巡拝が終わり、参加者が眠りにつく頃、先生は通訳を部屋に呼び、1日の反省と共にお大師さまの業績や人となりを懇切丁寧に説き、それを次の日にどう生かしていくかを、徹底的に教育してきたそうです。これが二十数年も続くのです。ここに静先生と中国の通訳の人たちと信頼関係ができたのです。常人ではできません。お大師さまをひたむきに求めない限りできることではありません。

こうして通訳の方は私たちが何を望んでいるか察して、先生の手足となり、通訳をしていくようになりました。

許さんは、2年前に建立された縁起碑を機に、静先生とお大師さまが一体となって現代の中国で生きておられることを体感され、どうしても先生の個展を中国で開きたいと考えるようになったのです。

このことを先生に伝えたところ、先生は中国での個展を北京で開きたいと考えていたようです。許さんは即座に、「北京は政治の中心です。しかし、文化の中心は杭州です。それも中国の文化人の集まる杭州の西湖の西泠印社の協力の下で行いましょう」と提案しました。許さんは静先生のお大師さまへの信仰とその思想の深さに気づくと同時に、中国人の心に深く刻み込まれていることがわかっていたからです。単なる通訳者ではなかったのです。

西泠印社では、静先生の書画が、弘法大師空海の思想と中国文化に支えられたものであることを知り、静先生の個展に全面的に協力してくれました。それがまた新たな人を呼ぶという連鎖で伝わっていったのです。

さらには先生の旧知の四川省の人たちもかけつけ、ぜひ四川省でも先生の個展を開きたいとの提案がありました。四川省の個展は、この翌年峨眉山がびさんで行われました。

お大師さまは、今も日本を思い中国を思いつつ、人類の師として不眠不休のご活躍をされています。静先生も日本を思い、ついに日本を越えて中国で生き始めています。これほど素晴らしいことはありません。

静先生には、人の評価を超越した境地を見せて頂きました。ありがたいことです。

先生はこれからも高野山を舞台にご活躍されることと思います。どのような作品が新しく生まれるか大変楽しみです。書聖静慈圓先生の歴史的偉業をさらに多くの方々に伝えてまいりたいと存じます。

静慈圓書作品「暁月朝風情塵を洗う」〈性霊集〉
漢詩文集『性霊集』より。高野山での修行について「あかつきの光に照らされ、朝の清々しい風に吹かれると、心のなかの塵のような迷いは吹き飛ばされる」と記している。

静慈圓書作品「暁月朝風情塵(きょうげつちょうふうせいじん)を洗う」〈性霊集〉

     
静慈圓書作品「三宝の妙道」〈性霊集〉
空海の漢詩文集『性霊集』より。三宝とは仏・法・僧、妙道とは優れた道のこと。仏弟子に向け、「三宝の優れた道をおこせ。それが私の願いである」と記している。

静慈圓書作品「三宝の妙道」〈性霊集〉

静慈圓書作品「暁月朝風情塵を洗う」〈性霊集〉
自著『秘密曼荼羅ひみつまんだら十住心論じゅうじゅうしんろん』を要約した『秘蔵宝鑰』のなかの一文、「やすむときは心源空寂なり、万徳まんどくここに妙用無窮みょうようむきゅうなり」より。

静慈圓書作品「心源空寂」〈秘蔵宝鑰〉